事故…あの日から

【事故…あの日から】

電話は保育園からでした。女性の声で私に慌てて言いました。
『お母さん、緊急です!愛也加ちゃんの容態が変ですので、気を付けてこちらへ来てください』。

何を言っているの?さっき主人が保育園へ連れて行ったのに容態が変って何?

状況が全く分からず「どうしたんですか?どうしたんですか?」と、繰り返し繰り返し聞きました。
何度も同じ事を聞くと、『何か詰まったみたいなんです。』と言われました。

『こちらでも、はっきり把握してませんので、とにかく救急病院へ運びます。』
そう言われて初めて、ただ事ではないのかもしれないと思い、すぐに救急病院へ向かいました。

病院へ到着して看護婦さんへ尋ねると、
「来るとの連絡なのですが、まだ来てませんので保育園隣の医院へ居るのかもしれません。
行き違いのないように!」と言われ、今度は保育園隣の医院へ向かいました。

到着すると、駐車場には救急車が止まっていました。

医院の玄関を入ると保育園の先生が4人くらいで泣いていました。
私はそれを見た瞬間、何か嫌な予感がしました。

「なんで、泣いてるの?」、「なんで、泣いているの?」・・・
何度も何度も聞きました。

保母さんは口を開かず、ただ首を横に振るだけです。
それでも、私は何度も、何度も聞き続けました。

何も答えない保母さんに私は絶対に口にしたくなっかた言葉を、担任のM保母に聞いてみました。

『生きてるんでしょ…?』

M保母は声を上げて激しく泣きました。
私も涙がボロボロ出て、信じられませんでした。

すると保育園理事長の娘が、近寄って来て、『院長先生が今、処置室で処置しておられます。
私達もはっきり判りません。しばらくすると、呼ばれますので・・・』

それから、院長先生に呼ばれて処置室へ行きました。

愛也加はベットの上に仰向けに眠っているようでしたが、顔色はいつもの肌の色ではありませんでした。

院長先生は一生懸命、救命処置を講じておられたようですが、私の方を向いて、
『ずっと手を尽くしましたが・・・』と、首を振られました。
先生が首を振られた瞬間から、私は現実を受け入れられず、ただ、泣き叫んでいました。

先生は『処置を終えます』と言われましたがそれはもう愛也加の鼓動が動き出すことはない…
最後だという意味の言葉であることに、その事実だけは絶対に認めたくない、受け入れたくない私は、『お願い止めないで!いやです!いやです!いや!!』と狂ったように何度も繰り返して言いました。

そして先生は、時計を見て 『 死亡確認…11時30分… 』 と言われました。

その後すぐに警察の捜査員が私の前に来ました。
そして手を合わせて頭を下げました。

処置室の外に連れ出され、愛也加の出生時の事、現在の身長、体重、既往歴などを聞かれ、
事故か病気だったか、はっきりさせる為に解剖を勧められました。
でも私は、すぐにお断りしました。

《何で愛也加を切り刻まれて痛い思いをさせないといけないの…もう、これ以上何もしなくていい…》

こんな話をしている間も、愛也加がまだ入っている処置室のドアは閉められていました。
中からは、ガチャン!ガチャン!と音が聞こえ…

『何してるんですか?!』と強い口調で捜査員に尋ねました。

『まだ、ちょっと調べています…』
私は、これ以上、愛也加に何もしてほしくない…悲しみと心配で、いっぱいでした。

しばらくすると、また愛也加に会えました。

主任の保母さんが、『お母さん、あやちゃんの体をきれいに拭いてあげましょう。』と言いましたが、愛也加を触ると現実を受け入れないといけないような、
まだ悪夢であって欲しい、こんな酷い悪夢なんて早く覚めて欲しい、そう想いながら…触るのが怖くて手が出ませんでした。

すると、その保母さんは私の手を取り、自分の手を私の手の上に重ねてタオルで拭き始めた。

あぁ…夢じゃないんだ…現実なんだ…
『何であやたんがこんな目に遭わないといけないんだろう』。

信じ難い現実を目のあたりに、ただ、ただ、泣くことしか出来ませんでした。
体拭きが終わり、愛也加に最後のおむつ交換をしました。

それから、肌着を着せて、ベビー服を着替えさせ、ボタンをかけました。
看護婦さんは愛也加をピンク色のタオルケットに包んで私に抱かせてくれました。

それでもまだ亡くなったと信じたくない私は、「今ならまだ間に合う、生き返って、息が戻ってくれるんじゃないか」と、顔を触って暖めたり、指を暖めたり、足を暖めたり、からだ全体を暖め、ずっと生き返ってと願いながら、抱きしめていました。

後で駆けつけた親が、『殺されたかもしれない!愛也加には可哀想だけど何があったのかハッキリさせた方がいい』と泣きながら言っていました。
それでも私は拒否しました。
主人も駆けつけて、警察の捜査員らが解剖を勧めていました。
私と同じく、主人も断っていました。

当時SIDSについて詳しく知らなかった私達に対して、刑事課長は「乳児が突然に亡くなる病気があって、それを『乳児…突発性…症候群…?』と言うんだよ。
それを省略して『SIDS』って言うそうなんです。苦しまずにポクっと亡くなる…大人で言うポックリ病のような…」と、簡単に説明してくれました。
その『SIDS』を言い出してからは、何度も何度も病死したかのように言っていたのを覚えています。
それを聞いていた祖父母は、また解剖を主人にも勧めました。
主人は解剖の必要性を理解したらしく、私にもそっと勧めました。
私は少し時間をかけて考えました。そして身を切る思いで、しぶしぶ承諾しました。

その場に居合わせた理事長は、
『色白でスヤスヤと眠っておられて、気が付かなかった。』
『この問題は、園と園長の責任です。
お姉ちゃん(同じ保育園に通う愛也加の姉)を全力でお守りします。』

保育園からその言葉以外、愛也加が過ごした当日の園での生活は何一つ聞いていませんでした。

解剖へ向かうため愛也加を抱いて病院を出ようとした時、M保母は、『お母さん…ごめんなさい…』と言って頭を下げました。
しかし私達はM保母が言った『ごめんなさい』の意味を深く考える余裕なんて全くありませんでした。

長崎医大へ向かう車内で何でこんな事になったのかと、何度も何度も考えました。

理事長が言った、『スヤスヤ眠っていて、気が付かなかった!!』
また、刑事さんも、『苦しまずに、眠ったままポクッと亡くなる、大人で言うポックリ病・・・それがSIDS・・・』

それらの言葉を、私達夫婦はこのように理解していました。
『愛也加はスヤスヤ眠ったまま、自分でも気が付かないまま、何にも苦しまずに亡くなっていった…
苦しまなかっただけでも良かったのよね。』
『私たちも辛いけど・・・愛也加は苦しくなかった・・・ね。』
『それがSIDSという病気なのね・・』

そう思うことで、お互い現実を受け入れて、なだめ合っていました。
そう言う会話を聞きながら、警察車両を先頭に祖父は黙って、なるべく揺らさないように、静かに運転してくれました。

長崎医大に到着して解剖のため愛也加を捜査員に預けました。
愛也加が解剖される一部始終を傍で見守りたかったのですが、私は言い出せませんでした。
それから医大の駐車場で愛也加の帰りを待ちました。

待ちに待った愛也加の頭には包帯がグルグルに巻かれ、その包帯には血が滲み、おでこは本来の形とは違っていました。
何とも言えない悲しみ、不憫さ、そして悔しさで、また、涙がドッと溢れ出ました。

やっと愛也加と一緒に自宅へ帰ってきました。
玄関前に理事長や幼稚園の主任保母の姿がありましたが、私達は『何故、こんな事になったのか』一言も聞きませんでした。
また日を改めて、愛也加の面倒を見てくれていた担任の保母さんが、きちんとした説明をしてくださるものと信じていました。

私達夫婦は愛也加を抱けるのはこれが最後と、ずっと交替で抱いていました。
周りの人達が、
「愛也加もきついだろうから布団に寝かせた方がいいんじゃない?」と言われても、
「もう抱けないから…」と言って、なかなか腕から離そうとしませんでした。

《 二日目 》
この日、お通夜になるので斎場へ向かう前に最後のお着替えをしました。
これまで見れなかった解剖の傷を少し見ました。
胸に付けられた傷は痛々しく、色白でプクプクしていた胸に一針一針を、ぎゅっと縫い合わせ、縫い目一つ一つが盛り上がり、血が滲んでいて、
どれだけ痛かっただろう、どれ程に痛い思いをしただろうと考えると、小さな小さな愛也加がとても可哀想でたまりませんでした。
本当に解剖が必要だったのか、しなくてもよかったのでは・・・と、後悔もしたり・・・

しかし私は、刑事さんから聞かされた、「SIDSという病気が、いまだに解明されていない」という言葉に、愛也加を解剖したことによってSIDSの原因が少しでも掴めれば、そして、もうこれ以上赤ちゃんの死が無くなるよう、また私達のように悲しむお父さん、お母さんが居なくなって欲しいと、痛切な思いで解剖に承諾しました。

そして、その時は、解剖すれば病気だったのか、事故だったのか、何もかも全てがはっきり区別され、明確に結果が出るものと思っていました。
でもやっぱり愛也加には、痛い思いさせてしまって「ごめんね…」と謝りました。

《 三日目 》
お葬式、火葬も終わり、粉になってしまったお骨も全部自分の手で掬い、小さな壷の中に入れて持ち帰りました。

お葬式には、たくさんの方がお焼香に来て下さいました。
私の大親友二人も、真っ先に駆けつけてくれました。

本来ならば、その場でお礼を申し上げなくてはならなかったのですが、皆様の暖かいお言葉に、こみ上げるものは涙ばかりで、お礼すら言葉に出来なかった事を、申し訳なく思います。
ご参列頂きました皆様、本当に有難うございました。

家の中に祖父母や親戚が居てくれると、少しはザワザワしていて、気を紛らわすことができるのですが、みんな帰ってしまえばシーンと静かになってしまい、パパ、私、お姉ちゃん、(そして愛也加)になってしまうと、寂しくて、寂しくて…
静かな部屋の中には、私の泣き声だけが響いていました。

毎日毎日考えることは愛也加の事ばかり。
五日を過ぎ、一週間が過ぎましたが、何もやる気はないまま、涙だけがポロポロ出てきます。
そして保育園で亡くなるまでの愛也加の様子が気になりだし、愛也加の姉も、ずっと保育園を休ませていました。

”そろそろ担任の保母さんがお線香をあげに来てくれるんじゃないか…”
ずっと待っていましたが来てくれません。気になる話しも聞けないままでいました。

それから二週間(4月28日)、お姉ちゃんを私の手元から離し、愛也加と同じ保育園に預ける事が、とても怖くなり、この保育園をやめさせる事にしました。
その手続きのため、保育園に行きました。気になる愛也加の話しも聞けると思い・・・

保育園の客室に行くと、お姉ちゃんの担任は会いに来てくれたのですが、肝心な愛也加の担任は来てくれませんでした。

愛也加が亡くなった日の朝、預けてから亡くなるまでの、園での生活を知りたかったので、『担任の先生に会わせて下さい』と理事長の娘にお願いしましたが、「保育中ですので…」と断られてしまいました。
「愛也加が亡くなった日の朝、預けてから亡くなるまで、園での生活をどのように過ごしたのか、私にはどうしても気になります。知りたいです」と告げました。
すると、理事長の娘は、「担任の先生方に話を聞いて、後できちんと教えます」とそう約束をし、長女の退園手続きをして帰ってきました。

それから五日、黙って待ちました。
そして、もう待ちきれずに電話を入れました。その時理事長の娘は不在で、その日の夕方、電話がありました。

『理事長の娘で乳児保育園の園長をしております○○です。
これほどにまで、お母様が思ってらっしゃるとは思いませんで…
担任の保母を集めて時間を追って、思い出しながら聞きました』と言って説明が始まりました。

9:00前後、父親が連れてきた。その時はぐずり泣きしていた。

10:10、コンビラック。10分間ほど乗っていたが、その後も泣いていた。

10:25、(時間だけを言って何も言わない)

10:30、おむつ交換中の時間。月齢の小さい子供から順番にしていく。その時も泣いていた。

10:35、ベットへ寝かせるが、泣いていた。

10:40、泣き止んだ。

10:44、主任保母へ。(愛也加の異常を報告)

10:52~53、
私(理事長の娘)のところに連絡があり、○○(他の施設)のほうに居ましたので、
直接、隣の○○医院へ直行しました。

ものすごく簡単な説明でした。
私は最後に「愛也加を見てくれていた先生はM先生ですか?」と聞くと、『はい…』との返事でした。
私は『M先生とお話ししたいので代わってください』とお願いしたのですが、

『直接お話しするのは佐世保市の方から止められていますので』と断られました。

何故我が子がお世話になっていた保母と話が出来ないのか疑問に思いました。

もう一つ重要なことを聞きたくて、『最後に、寝かせ方は「うつぶせ寝?、あおむけ寝?」どちらか教えてください』と聞くと、
一呼吸置いて、重い口を開くように、『うつぶせ寝です…』と言いました。

まさか保育園で「うつぶせ」にされて亡くなっていたなんて信じきれませんでした。
私は悔しさと悲しさで、すぐに電話を切って大声を上げて泣きました。

⇒ 「 悲しい真実 」 に続く